盤雙六と絵双六

「すごろく」は2種類あります

皆さんに馴染みのある紙に描かれた「絵双六」と囲碁や将棋のように対面で対戦する盤上遊戯の「盤雙六」です。

盤上のすごろくを雙六、紙のすごろくを双六と漢字表記することが多いようです。
このサイトでもそのように表記します。例外として江戸時代の絵双六には紙であっても雙六と表記されているの物や壽語録など様々な当て字を使っていることもあります。

盤雙六の歴史とルーツはとても古く、大陸や海を渡って日本に伝来したと推測されています。盤雙六と絵双六は異なった遊び方ですが、日本だけ両方を「すごろく」と呼び、今日に至っています。

盤雙六と絵双六、主に江戸時代を中心に歴史とその時代背景を辿ってまいります。



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古代エジプト


盤雙六の歴史を遡ると古代エジプトに行き着きます。紀元前4千年の終わり頃には「セネト」と呼ばれる盤雙六のルーツとなる遊びが存在していたと推測されています。

 



人類がまだ自然を理解できない幼かった時代、大いなる者の意志を乞う方法として小石や動物の骨、小枝など様々な物でサイコロが生まれました。

やがてサイコロを振って進む盤上ができゲーム性を伴うこととなります。初期には神の意志という呪術性を受け継いでいたと考えられています。
こちらも様々な形態がありましたが、中でも古代エジプトの「セネト」が最も長く遊ばれ、遠方まで広がったことから盤雙六のルーツと考えられています。

セネトとは「通過する」という意で、『死者の書』とセネトの盤面に書かれている文字が一致することから死者の復活を祈願したものを推測されています。

古代ローマから中世に至る時には「トリック・トラック」となり現代のゲーム「バックギャモン」に繋がっていきます。「バックギャモン」は主に米国で現在も親しまれているゲームです。

ペルシャでは「ナルド」と呼ばれ、シリアなどでは最近まで遊ばれていました。遊牧民の商人によってシルクロード旅し中国や韓国に伝わり、日本に伝来したと考えられています。


                             



        木画紫檀双六局



聖武天皇愛用の品で、日本最古の美しい木画に彩られた双六盤は、奈良の正倉院宝物殿に伝わっています。

 


右が「木画紫檀双六局」です。紫檀の薄板を貼りめぐらし、脚の側面に美しい木画細工が施されています。聖武天皇の愛用の品とされ、『国家珍宝帳』という宝物の記録にも記されています。同じ形の雙六盤が新疆ウイグル自治区のトルファン・アスターナ遺跡から出土されていることから、中国から伝来した可能性が高いといわれています。

左図は雙六の駒と賽子です。駒を双六子、賽子を双六頭と呼びます。賽子は象牙、駒は水晶や琥珀、ガラスなどの素材で作られています。古代の雙六の駒は円錐形であることから、双六子はおはじきではないかという説もあります。

正倉院はシルクロードの終着点と言われます。海から大陸から渡ってきた様々な文化や書物、宝物が行き止まる位置が日本でした。正倉院の宝物殿には、世界で唯一残された琵琶などが保管されています。双六局と呼ばれる雙六盤は他に3点現存しています。



写真出典:宮内庁・正倉院宝物より


   
       幾たびの出された禁止令


盤雙六による賭け事は人々の射幸心を煽る魅惑の遊びでした。射幸心とはまぐれ当たりの利益を願う欲とスリルです。誰もが盤雙六に夢中となりました。

 


この図は有名な鳥獣人物戯画です。左は猿たちが盤雙六と袋に入った駒を嬉々として運んでいる図です。「これからやるか」「やりましょう」そんな会話が聞こえてきそうな曰くありげな表情に賭け事の匂いが感じられます。その右は人物図で人間の雙六遊びの状況を描いたもの。まず身包みはがれた男がもう一回雙六をしたいとねだっている哀れな姿が目につきます。足元には赤子がハイハイをして近づこうとしており、その後ろに妻らしき女性の悲し気な顔があります。これは破産してしまった現場のようですね、この絵巻物でも全てを失うほど熱中した盤雙六ブームを読む取ることができます。

盤雙六の記録が初めて登場するのは689年12月8日の持統天皇が出した禁止令で、『日本書記』に記されています。それから幾たびも雙六禁止令は発令されました。

754年10月の禁止令では罰則と事例が記されています。
「人々は法を恐れずに内密に集まっては雙六に興じている。班田農民は雙六で土地を失い一家離散となっている。五位以上の官人は現在の官を解任、利益も与えない。容認した官人も職を解く」
高僧である空海も僧侶が碁や雙六に興じることを禁じました。ですが絵巻物には僧侶の姿も見えます。法も賢者の助言も効力はなかったようです。



 
 権力者も才女も興じた盤雙六


幾たびも禁止令が出された盤雙六ですが、貴族や権力者などはほとんどが遊んでいたのです。その様子が書物などに残されています。

 


「鴨川の水、雙六の賽、山法師。これだけがわが心のままにならぬものよ」と言ったのは時の最高権力者白河上皇でした。当時の鴨川は治水が悪くよく氾濫を起こしたそうです。山法師とは比叡山延暦寺の僧兵です。そして雙六のサイコロの目です。これは『平家物語』第一巻、願建の章に白河上皇の言葉として残されています。

白河上皇の肖像画 出典:国立国会図書館

才女の清少納言は『枕草子』で「徒然なぐさむるもの」で碁や雙六をあげています。碁は知的なゲームとされ貴族のたしなみの一つでしたが、雙六は賭博性が高く、禁止令も出されていたこともあり、あまり上品な遊びとは考えられていなかったようです。

紫式部は『源氏物語』の中で雙六を小道具として使っています。「近江の君」が熱中して雙六に興じる場面を描くことで、上品ではない姫と読者が感じてしまうように導いていきます。当時は誰もが雙六で遊んでいたはずです。ところが身分の高い人が雙六遊びをする場面は出てくることがありません。さすが紫式部、声高に「はしたない」と言わずとも「近江の君」がどのような位置づけの姫かを示唆しているのです。

『長谷雄卿草紙』という絵巻物も有名です。雙六の名手である長谷雄卿に勝負を申し込んできたのは朱雀門の鬼でした。長谷雄卿は全財産を、鬼は絶世の美女を賭け勝負に挑んだのです。長谷雄卿が勝負に勝ち美女を獲得しますが、美女に100日間触れてはならないという鬼との約束を守り切れませんでした。触れたとたん美女は溶け出してしまうという怪奇譚ですが、鬼だって夢中になるほど雙六にはまっていた時代だったのですね。
                                                    


          
      盤雙六には厄除け効果が?


餓鬼草紙が語る平安時代の出産。病などは餓鬼がもたらすと考えられていました。

 



平安時代に描かれた国宝「餓鬼草紙」です。(出典:国立国会図書館)貴族の館での出産場面を描いています。餓鬼は胎盤が大好物で今か今かと待っていますが、誰の目にも餓鬼の姿は見えていないようです。胎盤だけではなく時には赤子も喰らってしまうのが餓鬼です。

現代でも出産は母子共に命がけですが、医学が確立していなかった平安時代は死と隣り合わせにあったことでしょう。

衝立の外側に目を移してみましょう。僧侶と赤い袴を着た巫女の姿があります。巫女の足元には盤雙六が置かれています。当時は雙六を打つ音に餓鬼が逃げ出すと思われていたのかもしれません。盤雙六には厄除け効果が期待されていました。運任せの出産にまじないや祈祷が唯一の防御法であったと考えられていたのでしょう。
                   


 

絵双六の歴史

「浄土双六」と「仏法双六」

江戸時代に入ると出版技術の向上と浮世絵の登場によって盤雙六は姿を消していき、絵双六が全盛期を迎えます。

絵双六は15世紀以前にはすでに遊ばれていたと考えられています。

絵双六が文献に記された最も古い記録は1474年8月8日の『言刻卿記』です。大納言山科言国の日記で浄土双六で遊ぶ集まりがあると記されています。8月12日には浄土双六を写して持参したとの記述があり、絵双六だと推察することができます。この時期、宮中ではすでに絵双六で遊ばれていたと推測できます。

日本における最古の絵双六は「浄土双六」と考えられています。

左図は上が「浄土双六」、下の図が「証果増進之図」で「仏法双六」と呼ばれていました。文字ばかりの双六で古いと思われがちです。研究が進むにつれて「浄土双六」が先行した可能性が高くなっています。

左図の「浄土双六」は現代の復刻版で販売されているものです。最初の「浄土双六」は白黒の簡素な物だったと考えられています。時代と共にカラフルな絵柄となり、地獄に堕ちても復活がしやすくなるなどの変更が加えられました。

下図の「仏法双六」は当初、最も古い絵双六だと考えられていました。文字だけに古い感じがするのは当然です。『すごろくⅡ』の増川宏一氏は、現存する「仏法双六」の数が多い事や、現在も全く同じ様式で再販されていることを挙げています。
仏教は今とは異なり大陸から渡ってきた新しい思想でした。それを学ぶために作成された双六だと思われます。現在も楽しく仏教を学ぶために利用している寺社もあるようです。




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 ヨーロッパは日本よりも早く絵双六が出現



ヨーロッパは紙に描かれたレースゲーム、「ゲーム」と呼び、日本は盤雙六と同じ
「すごろく」と呼びました。

 


盤雙六が世界中に伝播したように紙の双六も多くの地域で見ることができます。ヨーロッパではいち早く「鵞鳥のゲーム」が出現しました。『すごろくⅡ』増川宏一氏がブリュッセルの市法で「鵞鳥のゲーム」での賭博を禁止したと書かれています。盤雙六と同じく双六は賭博に利用されやすい宿命を背負っているのです。鵞鳥のモチーフは、イタリアでは鵞鳥は幸運の鳥とされたからではないかと推測されています。
                         
上記のゲームの一部をルイージ・チョンビ博士のHPより使わせていただきました。
イタリア語のサイトですが日本語翻訳も可能で美しい西洋アンティークゲームをご覧いただけます。
www.giochidelloca.it

のちに「蛇のゲーム」も現れました。「鵞鳥のゲーム」を基本として、日本と同じく印刷技術の進歩とそれぞれの国の時代背景の影響を受けながら、図柄が美しく変化していきました。

他方インドやパキスタンでは「蛇と梯子のゲーム」が盛んとなっていきます。蛇と梯子によってマス送りに変化と動きがもたらされました。こちらは世界でも盛んとなり今でも「蛇と梯子のゲーム」として遊ばれています。

中国や朝鮮でも十二支の双六や官位を表のようにした双六が残されています。
                                 


 平和な時代の到来で花開く庶民文化

泰平の世、人々は娯楽を求めます。書物、識字率が世界でも高かった江戸庶民は読書も娯楽、楽しみのひとつでした。印刷技術が発展を遂げ、書物も手に入りやすくなり気軽に安価で楽しむための貸本屋も多く出現しました。物語や情報などは文字だけではつまらないものです。やがて挿絵が入るようになり、人気を博すようになります。ならば挿絵だけを売ってみようと「浮世絵」が生まれました。

 


上記の錦絵は「今様見立 士農工商 商人」歌川国貞画(出典:国立国会図書館)です。錦絵とは浮世絵の多色刷りです。江戸後期になると木版印刷がより精緻になり色彩豊かな美しい浮世絵、「錦絵」が主流となっていきます。

書物などの出版や印刷技術、文化の発信地は京都や大坂でした。幕府が新しく開いた都、江戸は常に遅れをとり、酒や食品、本なども上方から船で運ばれていたのです。それらは「下りもの」と呼ばれ良い物とされていました。天皇がおいでになる都が常に上なので、江戸へ行くことは下ることになるからです。「下らないもの」は良くないものから「くだらない」=「つまらない」という今の語源となりました。

大坂では井原西鶴が新しい書物のジャンル「浮世草子」、『好色一代男』を発表し大ベストセラーになります。江戸でも大評判となり贋作も多く出版されました。著作権がなかった江戸時代、大坂から運ぶよりも断りなく刷ってしまう方がコストが安かったのです。

とはいえ江戸は中心地、、新しい文化が花開いていきます。幕府体制で身分制度は確定的となり、武士は活躍の場を失っていきます。知識のある武士などが戯れに慰みを求めて世情を描写し新たな文芸「戯作」が生まれることとなります。洒落本や黄表紙、咄本などを「戯作」と呼び、町人の作家も参画することとなりました。

「戯作」は庶民の読み本として広がりを見せ、挿絵から浮世絵が生まれていきます。多色刷りの「錦絵」に発展し、江戸の名物土産としての地位を確立していくことになります。浮世絵の需要は高く様々なジャンルが生まれ、その一つとして多くの双六も作成されることとなりました。




 浮世絵の発展と共に絵双六も百花繚乱

双六といえば絵双六を想像します。江戸時代、浮世絵と共に多様な絵双六が溢れていたからに違いありません。
(『恋女房染分手綱』の一場面 歌川豊国作 『古代江戸絵集』 国立国会図書館所蔵)

 


まず、浮世絵から多色刷りの鮮やかな錦絵となり、それぞれに完成度の高い絵が刷り上がり市中に出回るようになりました。その絵が数十枚集まって双六が出来上がるのです。双六は並べるだけではありません。全体像のバランスや美しさ、配置、物語や目的も考えねばならず、様々な要素が絡み合うより複雑な作業となります。
浮世絵の値は庶民価格で安い物でした。もう少し値を上げたいという意図もあって様々な双六が作成された一面もあります。用途は様々でした。芝居のプログラムやお店の宣伝にも使われるようになりました。旅案内や、買物案内、食べログ風に美味しいお店紹介、時には道徳を説き、数や文字、生き方も教えます。

江戸時代は実に様々な絵双六に挑戦しています。精緻で見惚れるような双六はパトロンが付いていたい可能性もあります。豪商が新年の挨拶代わりに配るなど、粋を競ったこともあったでしょう。



    
       
  江戸時代の秀作双六をご覧ください。(随時更新)      

              (画面クリックで拡大します)


「大当楽屋寿語六」 豊原国周画  出典:東京都立図書館


贔屓役者の楽屋を覗いてみたい、素の姿を知りたいと思うのはいつの世も変わらぬファン心理なのでしょう。役者の楽屋裏を描く絵は人気だったようです。双六となればちょっとした役者のつぶやきが加えられ、遊んで眺めて楽しい贅沢な気分を味わうことができます。

 
 

この双六は歌川国貞の『市村座三階之図』を参考にしたようです。振出しは一階中央の貼紙です。飛び双六となっており、板壁に書かれた台詞や愚痴を読みながら、役者を眺めつつ上りを目指します。役者の立ち位置は格付けの問題もあるでしょう。配置も計算済みなので、役者がどの位置にいるのかを辿ってみると当時の関係性が見えてくるかもしれません。

浮世絵で一番の売れ筋は役者絵です。それも上演中の役者絵が良く売れました。当り前ですね。記念につい買ってしまいそうです。ですが何事にも旬があります。人気や流行りすたりも早いもの。上演期間中に売り切ってしまいたいのが店側の心情でした。

とはいえ名だたる役者が勢揃いした双六は贅沢な作品です。




「新板わ里出し壽古六」歌川豊麿画 出典:国立国会図書館


遠近法の構図で視点は舞台に集まりますが、何よりも周囲を取り巻く碁盤目状の桟敷席の観客に目を奪われます。当時の芝居見物が体感できる双六の傑作です。

 
 

江戸の人気娯楽の一番は芝居でした。その熱気が伝わってくるこの双六は初代歌川豊国の「芝居大繁盛之図」を参考したといわれています。かかっている演目は人気演目の一つ『義経千本桜』です。どうりで客席は満員。桟敷舞台を絵マスにたとえ、観客の着物も違えば表情もそれぞれ異なります。中には芝居そっちのけで飲酒に興じる人もいて、現代とは違い騒がしい劇場内であったことが想像できます。

舞台の後ろに控える三味線の左横にも観客席があります。「羅漢」と言って一番安い席です。役者の後ろ姿しか見えないのですが、こちらの方が熱心に観劇しているように見えてくる不思議。僅かな給金からひねり出して観に来たのかもしれませんね。お茶屋という料理屋と芝居は繋がっており、飲食しながら芝居を見ることが普通でした。上部の階になるほど高級な席、お茶屋と繋がっている席もあるようで、出来立ての料理を運んでいます。頭巾を被りお忍び風で武家の奥方が見物中です。庶民の娯楽見物は身分を隠さねばならないのでしょう。観客にもそれぞれのドラマを感じることができ、見飽きることがありません。役者だけではなく観客、芝居小屋の一体感がこの双六の大きな魅力です。


「仮名手本忠臣双六」 一鵬斎芳藤画  出典:国立国会図書館


12月の時代劇ならば今も変わらず『忠臣蔵』です。江戸時代は史実に関わる内容を芝居などにすることはご法度でした。ならば時代を変えて名前を変えて創作したのが『仮名手本忠臣蔵』でした。仮名は47、47義士をイメージさせ赤穂浪士と察しがつきました。

 
 

『仮名手本忠臣双六』は人形浄瑠璃で始まり歌舞伎で大人気の演目となりました。まさに「独参湯」。どくじんとうとは不入りが続いても起死回生で大入りとなる演目のことです。判官贔屓体質の日本人、赤穂浪士は大人気でした。現代でも多くの人が粗筋をご存じの事と思います。人気役者も演じてグッズ販売の定番商品でした。物語は知っていても47士の名前となればなかなか覚えきれません。今でいうならばトレーディングカードでしょうか。47義士それぞれの浮世絵が出回っていました。お気に入りを一枚づつ集める楽しみもありますが、勢揃いした双六は便利だしお得です。

ところが上りがなぜ海辺の風景なのでしょう。これは高輪の海辺で水茶屋などが集まる賑やかな場所なのです。高輪で船から降りて向かうのは泉岳寺でした。泉岳寺とは赤穂藩浅野家の菩提寺で赤穂浪士の墓石もあり、御開帳には多くの人が詣でる観光スポットとなっていました。ところが残念なことに寂しいお寺だったのだそうです。お寺だからそれでいいのですが、観光となれば華やかさも欲しいところ。そこで桜で有名な芝明神や高輪を回るのが定番でした。高輪の海辺といえば泉岳寺を誰もがイメージしたのです。


「水滸傳豪傑雙六」 一歌川国芳画  出典:国立国会図書館


中国からやってきた奇想天外、アクション満載の物語『水滸伝』は百姓目線の世直し物語。浮世絵にしたら大当り。太平の世に物語の世界から躍り出た熱血漢のヒーローたちはカッコイイ。それを浮世絵にし国芳は動きのある少年漫画風で一気に名を上げました。

 
 

江戸時代の書物中国ブームが起こっていました。壮大なる物語の数々、『三国志』や『西遊記』『水滸伝』などは今も人気を誇っています。

中国の明代の小説で、庶民から傑出した英雄たちが集まり、正しい世に戻そうと戦う世直し物語。これを錦絵で表現したのが歌川国芳。曲亭馬琴の英雄を女性に変えて書いた『傾城水滸伝』の大ヒットのブームに乗って国芳の錦絵も大人気になりました。物語の中から飛び出してきたような英雄たちの身体の躍動感は、国芳人気を不動のものにしました。物語の英雄たちが勢揃いする双六は本当にお得感満載です。


「奥奉公出世雙六」歌川豊国(三代)画 出典:国立国会図書館

江戸幕府の大奥、その役職と階級を描き説明してくれる双六です。いわば女性版官僚出世コース、たとえ身分が低くとも飛び越える可能性を示しています。現代女性ならば、玉の輿に乗ること、権力の座を掴むことが幸せ?と疑問を持ってしまいそうですが、江戸時代はかっちりとした身分制度に縛られた世界でした。その枠の中で自分の価値を上げる女性の必殺法が大奥にあったのかもしれません。それもこれも戦で命を落とすことのない平和が前提とした世界であったことを忘れてはなりません。

 
 

大奥は将軍を生み育てる場所として整備されてきました。最盛期には下働きも含めて総勢三千人の女中が働いていました。規則は厳しく細部にわたって決められていました。職種も上級、中級、下級と別れています。この双六のふりだしも「おはした」や「おすゑ」のように奥奉公の最下位へ飛ぶ指示が二つあります。
役職の肩書は「御目見得以上」(御台所に謁見できる)「御目見得以下」「部屋方」などがあります。この中で「御目得」の一が出れば、運が良いとなります。もちろん上りは奥方様です。

この双六が作成されたのは1844年(弘化1年)辺りとされています。時代は幕末、凶作で飢饉で一揆が続発、幕府の財政を立て直すべく老中水野忠邦が行った天保の改革も失敗に終わりました。その翌年、厳しい出版統制が緩んできたのでしょう。錦絵や双六が多数出回るようになりました。
これを描いたのは歌川豊国の後継者と目されていた歌川国貞です。実力も人気も一番でしたが、豊国が生前、跡継ぎを決めていたため二代目になれませんでした。それを認めきれない国貞は勝手に二代目を名乗り顰蹙を買い、三代目豊国と名乗ることとなりました。


「奥奉公出世双六」 国貞画 出典:国立国会図書館


女性の出世、エリート競争といえば「大奥」。美人画が得意な国貞が「大奥」の役職を題材に様々な地位の女性たちを華やかに描いた双六です。1とは異なった構図で描かれています。

 
 

こちらは枠が取り払われた全身図の奥奉公です。しかしこの前年に貞国は亡くなっています。国貞の後継者二代目国貞が描いたのでしょうか。
華やか衣装から大奥の格付けが見えてきます。この双六、艶やかでありながら乳母の姿やお多福の面をつけて踊る女中など、ユーモラスな感じを受けてしまいます。幕府や将軍家に関わることはご法度で描いてはいけないとされていました。大奥だってこのような描き方は?と思ってしまうのです。」艶やかな色使いは海外から発色の良い染料が入ってきたと考えられます。時は幕末、幕府の統制力は弱まってきていたのでしょう。文化は急激な時代の流れをそれとなく伝えてくれているように思えてきます。


「参宮上京道中一覧双六」 歌川広重画 出典:国立国会図書館


旅は平和の世でなければ庶民が楽しむことはできません。太平の世で治安も安定、街道も整備されたとなれば憧れの寺社仏閣へ、花のお江戸、都を巡りたい、庶民の旅心を誘う双六はとても魅惑的でした。

 
 

流石は歌川広重、ドローンなんてない時代に鳥の目になったように全体像を上空から俯瞰したような構図の道中双六を描き上げました。江戸の日本橋を出発して富士山を廻り、伊勢神宮を参拝して上りの京の都を目指します。なんて盛沢山、贅沢な旅でしょうか。

平和となった江戸時代、旅ブームが巻き起こったのです。旅には旅行書や買物リスト、ガイドなどを思い浮かべる方も多いでしょう。江戸時代にはすでに出来上がっていました。もちろんパックツアーなるものの。旅は娯楽の中でも一大イベントです。旅の準備をする時が一番楽しいというではありませんか。旅双六を遊んだり見たりすることで、旅心を誘われていたのかもしれませんね。